ポリコレについて

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「シェイプが黄金らせんに沿っていると美しく感じる」という話を茶化した絵。
 
 
 
感覚的な話をする。
 
民族や性別を理由に不利益を被らされて、しかもその不利益が社会的に不可視化・容認されているような状態、いわゆる差別を減らすことは、いいことだと思う。それは、そういう差別の中に一般的にある、見ていて本当にゲンナリするような不健全さとか暗さとか自主性のなさを減らすという点で「いい」と思う。
  
全体の利益になるから「いい」とか、平等が「いい」ことだから「いい」とかいう話になると、少し毛色は変わってくる。前者は時局に左右され過ぎる。後者は、安易に却下することはできないが、不可能な目標に向けて憎悪を走らせるエンジンとして機能したり、自由を軽視し過ぎたりする傾向がある。
 
ポリコレは、繊細で微妙な話を流通しづらくする。複雑な話は隠れたレイヤーか、狭いサークルで流通するようになる。それはそれで別にいいかもしれない。微妙なものというのは元々そういう傾向があって、ポリコレ的な作用はそれがポリコレと呼ばれる前からある。上述の、なぜ「いい」のかという方が大きな問題で、ポリコレ云々はそれ次第な気がする。
 
 

 ※自分が差別を受けにくくなるという点で「いい」と言ってもいいかもしれないが、それは留保する。ロジックとして、「差別で損をしたくない」という立場は「差別で得をしたい」というのとそう変わらない。「当事者的でない」と言われるかもしれないが、果たして自分がどっち側だと想定するのが「当事者的」なのかは微妙なことだと思う。


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